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茶の湯大成から切腹まで、出身地・堺を歩きながら知る千利休の生涯

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世界ではスペイン艦隊が世界一周を達成した1522年、大阪・堺に生まれた千利休(せんのりきゅう)。織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶道千家(さどうせんけ)流の始祖となりましたが、最期は秀吉から切腹を命じられました。

実家は魚問屋で、自由都市・堺の支配階級である納屋衆(なやしゅう)でもあった千利休がどうやって「茶の湯」を極めていったのか? 信長から三千石もの禄(ろく)を与えられ、秀吉からも絶大なる信頼を得ていた千利休が、なぜ切腹をしなければならなかったのか?

今回、千利休の生まれ故郷である堺を歩きながら、その生涯を調べてみました。

「堺」と「茶の湯」と「利休」

千利休が生まれた当時、堺は中国やヨーロッパ、東南アジアとの貿易が盛んでした。また、有力な商人たちが自分たちで政治を行う自治組織がつくられ、1つの都市国家のような街でもありました。

南蛮貿易で栄えていた堺では、「市中(しちゅう)の山居(さんきょ)」という風雅(ふうが)を楽しむ気風(きふう)がもてはやされていました。「市中の山居」とは、都会にいながらにして山里の風情を味わうことです。豪商たちをはじめ、町人たちの間では、家の裏庭に茶室をつくり、周りに樹木を植えるなどして、そこで茶会や会合を楽しみました。

はじめ利休は、書院の茶を得意とする北向道陳(きたむきどうちん)から茶を学んだと言われています。その後、堺の豊かな商人で、茶の湯の師匠でもあった武野紹鴎(たけのじょうおう)のもとへ弟子入りしたのは、利休が17歳の頃でした。

堺に残る「武野紹鴎屋敷跡」は、今は小さなガレージとなっていますが、利休の弟子時代のあるエピソードがこのような看板で紹介されています。

rikyu_01(大阪府堺市堺区中之町東2丁 南海本線堺駅から徒歩10分・阪堺線宿院駅より徒歩5分)

紹鴎はある時、利休の知恵を試そうと思って「庭を掃いてきなさい」と言いつけました。利休が庭に出てみると、庭はすでに箒目(ほうきめ)正しく掃き清められており、木の葉一枚、塵一片も落ちていません。少しの間、利休は立ったままでいましたが、すぐにある考えが思いつき、いくつかの木をポンポンと揺すっていきました。そうすると、何枚かの葉がはらはらと舞い落ち、あちこちに散らばって、地面を美しく彩っていきました。紹鴎は、この風流な心持ちを気に入り、利休に茶道の奥の手を教えたそうです。

こうして堺の実力者たちのもとで、利休は「市中の山居」の精神性を背景として、侘び茶(わびちゃ)を深めていきました。

2人の天下人と利休

天下統一を目指し上洛した織田信長は、堺から「矢銭(やせん)」と呼ばれる軍資金を徴収し、鉄砲の供給地としました。また、茶の湯を政治に利用する「御茶湯御政道(おちゃゆごせいどう)」を行いました。信長の死後、豊臣秀吉はこの茶の湯の経済的・政治的効用をより幅広く活用させていきます。

こういった政治背景のなか利休は、草庵茶室(そうあんちゃしつ)や樂茶碗(らくぢゃわん)といった、それまではなかったデザインの茶室や茶碗を生み出していきます。また、独自の見立てによる茶道具の使用など、侘び茶の探求を続けていきます。そうして、茶人の立場を超えた、権威と名声を得ることとなったのです。

当時の利休の立場は、商人であるにも関わらず、秀吉の「側近中の側近」とも言われていました。それは、秀吉のもとを訪れた戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に秀長(秀吉の弟)が「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」(「大友家文書録」より)と述べたことからもうかがえます。

それほどまでに秀吉から厚い信頼を得ていた利休。それがなぜ、秀吉から切腹を命じられることとなったのでしょうか。

利休が追求した「侘び」の世界観

利休には様々な逸話が残っていますが、その中でも有名なのは「朝顔」の話でしょう。

あるとき、「利休の屋敷の庭に朝顔が見事に咲いている」と評判になりました。その話を聞いた秀吉は「さらば御覧ぜん(それならば見に行こう)」と、朝の茶の湯に行ったところ、庭には一輪の朝顔も咲いていません。
秀吉は不機嫌になりながらも座敷へ上がったところ、色鮮やかな一輪の朝顔が床に飾られていたのです。秀吉をはじめ、一緒にいた人々は、目の覚めるような心地がして、利休は大変ほめられたそうです。これが後世に伝えられている「利休の朝顔の茶の湯」の話です。

これは利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)から聞いた話を、直弟子であり「宗旦四天王」の一人・藤村庸軒(ふじむらようけん)が書き綴った「茶話指月集(さわしげつしゅう)」にあるお話です。

rikyu_07(国立国会図書館デジタルコレクションより)

飾りも華やかさもない、質素な空間の中で静かに美しさを楽しむ… それが利休の追求した「侘び」の世界観であり、その美しさを堪能しながら穏やかな心持ちになっていただくのが、利休の客人に対する「おもてなし」であったのではないかと思います。

利休、秀吉の逆鱗に触れる

堺の中心部、宿院町に「千利休屋敷跡」があります。

rikyu_02(堺市堺区宿院町西1丁17-1 南海本線堺駅から徒歩7分・阪堺線宿院町駅から徒歩1分)

現在残っているのは屋敷の一部のみで、この10倍ほどの広さがあったと言われています。奥に見える井戸は、利休がいた頃から残っているもので、底に椿の炭を沈めて使っていたそうです。

こちらでは、堺の観光ボランティアガイドの方がいらっしゃり、当時の様子や利休切腹までの顛末を話してくれました。

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利休が仲の良かった1人に、古渓(こけい)というお坊さんがいました。古渓は、京都にある大徳寺(だいとくじ)のお坊さんでした。2人は、何でも話し合い、打ち明けあって、包み隠し事のない間柄でした。

天正17年(1589年)、利休は父の50回忌に合わせ、私財を使って大徳寺金毛閣(きんもうかく)を単層から二層へ大修造しました。そして大徳寺は、そのお礼と利休の功績を後世に伝える意味で、千利休像を作り閣内にご安置しました。

これが2年後の天正19年(1591年)、秀吉の知るところとなり、「天子様をはじめ、公卿(くぎょう)たちの出入りするところなのに! 利休のやつめ、自分の姿を刻んでその上に置くとは、なんという不届きものか!なんという無作法で不しつけなやつだ!」と大変に腹を立て、切腹を命じました。…というのは表向きの理由で、本当は違う理由があって切腹を命じられたのではないか? と言われています。

たとえば、利休の最大の味方であった秀長が病死してしまったことで、利休は孤立していきました。武士でもない利休が秀吉に意見できるほど権威を持っていることを疎ましく思う人の方が多かったのです。そして、秀吉が小田原攻めで京都にいない間、徳川家康1人を招いて茶会をしたことを口実に「利休は陰謀を企てている」 と秀吉に切腹を命ずるよう促したのではないか… とも言われています。

また、利休の出身地である堺では別のこんな噂がありました。

秀吉はある時、京都の東山に花見に行きました。その帰り、お吟(ぎん)という名前の美しい女性を見つけ、側室にしようとしましたが断られてしまいました。その後、お吟は利休の娘であることを知った秀吉は、娘を側室に出すよう利休に申し伝えますが、「いくら関白殿でもそれはだめだ。自分の出世の道具に娘を使ったと思われたくない。」と言って断ります。これに怒った秀吉が、機会をみて仕返ししたのだ…と。

その後、お吟が自殺をしてしまったこともあり、このような噂があったそうです。秀吉が切腹を命ずるに至った本当の理由はどこにも残っていませんが、当局が発表した利休の罪状が、当時の人々からすれば信憑性の薄いものだったのでしょうね。

おわりに

切腹が命じられる前、当時住んでいた京都から堺へ下る際、利休は短歌の一種である狂歌(きょうか)を詠みます。

利休めはとかく果報乃ものそかし 菅丞相になるとおもへハ

「菅丞相」とは、菅原道真(すがわらみちざね)のこと。嫉妬による偽りごとや誹謗中傷によって左遷され、死んでしまった菅原道真と自分を重ねたのでしょうか。

なんであれ、利休の一貫した姿勢と侘び茶の追求により、今の茶道があるだけでなく、「おもてなし」の精神や、日本独特の風情の楽しみが生まれ広がっていたことは事実です。

時間に追われ、忙しくしている現代の私たちにとって「市中の山居」を楽しむことは、もしかしたら贅沢な時間の使い方になるのかもしれません。けれど、時にはいったん喧騒から離れ、心穏やかに、空間の侘び寂びを感じるのも風情があってよろしいのではないでしょうか。

おまけ

さかい利晶の杜

南蛮貿易で栄えた堺で、利休と茶の湯文化がどう作られていったのかについては、「千利休屋敷跡」の隣にある「さかい利晶の杜(りしょうのもり)」で詳しく知ることができます。

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館内では、千利休に関する展示のほかに、本格的な茶室で茶の湯を体験できる施設があったり、茶道三家(表千家・裏千家・武者小路(むしゃのこうじ)千家)のお点前(てまえ)で抹茶とお菓子を味わえたりもできます。

施設名:さかい利晶の杜
所在地:堺市堺区宿院町西2丁目1−1
アクセス:南海本線堺駅から徒歩10分・阪堺線宿院駅より徒歩1分
駐車場:有 1時間200円 ※施設利用者には、一定の割引サービス有
営業時間:9:00~18:00(千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館、観光案内展示) ※茶の湯体験施設は10:00〜17:00
休館日:第3火曜日(祝日の場合は翌日)及び年末年始(千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館、茶の湯体験施設) ※観光案内展示室は年末年始

 

 

小島屋

宿院通りを挟んだ向かい側には、堺の銘菓として有名な和菓子・けし餅の「小島屋」があります。

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けし餅に使われているけしの実は、室町時代にインドよりもたらされたと言われています。このけしの実を、小豆のこしあんを餅皮で包んだものにまぶし出来上がったものが「けし餅」です。rikyu_06

千利休によって広められた茶の湯とともに、多くのお菓子が生まれました。そのひとつにケシの香味を生かして考案されたのが「けし餅」で、利休も好んで食べたと言われています。

甘さ控えめのこしあんに適度な歯ごたえの餅の皮。噛むたびにケシの実のプチプチとした食感が味わえます。自分用にもお土産にも最適な堺銘菓、ぜひご賞味あれ。

施設名:小島屋
所在地:堺市堺区宿院町東1-1-23
アクセス:南海本線堺駅から徒歩7分・阪堺線宿院駅より徒歩1分
営業時間:8:30~18:00

 

ライター紹介

おつるこ
大阪生まれ堺育ち。大阪、堺の歴史にゆかりのある場所や穴場の観光スポットを中心にお届けします。
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